幸福が定義されていた時代と幸福を定義する時代と

妄想話。


何かに取り組むにあたり、目標がある場合はそれをひたむきに目指すことができる。

もちろん、中には頓挫してしまう人や犠牲となってしまうような人もあるだろうが、基本的には多くの人が目標を目指して奮起するだろう。

例えば取り組む対象がダイエットなんかだと分かりやすい。

  • 目標体重や体脂肪率が定義されていて、それを目指していくダイエット
  • 目標体重や体脂肪率が定義されておらず、延々と体重を減らし続けなければいけないダイエット

両者のどちらの方が取り組みやすいかと言えば多分に大抵の人が前者を選ぶのではないだろうか。

あるいは取り組む対象をマラソンとしてもいい。

10km走れと言われるのと、走れと言われるの、どちらの方が取り組んでいて迷いが生じないかといえばこれもまた前者なのではないだろうか。

では、その取り組む対象が人生で、目標が幸福である場合はどうか。

一昔前であれば、幸福は画一的に定義されていたと思う。

男性であれば、より良い学校へ行き、より良い職場に就き、仕事に耽り、より良いポストを目指す。マイホームと妻、子供を持ち、彼/彼女らに看取られながら死を迎える、みたいなのが典型的な幸せの形だっただろう。

女性であれば、なるべく収入と身長と学歴が高い人の元へ嫁ぎ、あとの流れは上に同じ。

だから、迷いは生じづらい。定義された幸せに進めば良い。みんなが進むから自分も同じ方向へ進む。そこに不安は起こりづらい。

では、現代はどうかと言うと、終身雇用が終わりを迎えつつあり、そうなると金銭的面から家族を持つことに一抹の不安を抱え、おまけに寿命はやたらに長いときた。

こうなってしまったら昔に定義された幸福を目指そうとする道のりの難易度は相対的に上がる。言い換えるならコースアウトする人の割合が増えることを意味する。

だから、そのコースアウトした人達は自分なりに幸福を定義する必要が出てくる。

ただし、それはあくまで自分が自分のために定義する/定義した幸福だ。

他人に定義されていて、多くの実証・前例がある幸福とは訳が違う。

自分で定義した幸福を目指した結果、損する可能性もある。当然ながら前例がなければ是非の判断材料もないに等しい。

そうなると不安が生じる。自分のゆく道は正しいものかと。

その道を気持ちよく走れる人もいれば、恐る恐る進まなければならない人もいる。

幸福が定義されていた時代と幸福を定義する時代と、どっちの方が人は生きやすかったんだろうねぇ〜。

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